外山周です。
「英語をやってもやっても伸び悩んでしまう!いつ出来るようになるんだー!」と叫びたくなったことはありませんか?
私は今までで50回くらい叫んでいます(爆)。
堂々と言っていいのか分かりませんが、私は英語を読むのも発音するのも苦手です f(^_^;
でも、そういう人は英語を使えないのか?と言われれば、それも違います。
言語習得のポイントは、継続と繰り返し。
それに加えて、自分らしい場を選ぶことが鍵になる場合があります。
これは私が以前TOEICのサポートをした、ある大学生のお話です。
彼が日本での英語対策で疲れ果てた後に、短期留学で英語の楽しさを知ったお話を書きたいと思います。
「適性」を無視する英語業界
生まれつき言語が苦手な場合もある
私がハードなTOEIC対策を行う会社に勤めていた時、ある男子大学生に出会いました。
彼は寡黙で多くを話すタイプではなく、日本語の使い方もかなり独特な人でした。
例えば「ーした」と「ーしていた」の違いが分からなかったり、「やめます」を「去就です」と言ったり、独特なこだわりがあるタイプだったのですね。
・音読が苦手
・単語の認知が独特
・発音を真似することができない
などの特徴が揃うと、いわゆる軽度の「学習障害」があるのでは?と推測をします。
「学習障害」までいかなくても、サポートする側としては、発音や言語認知などから「英語の適性が低い」と判断をし、それ相応のプログラムを検討することになります。
私が出会ったその独特なこだわりのある彼も、残念ながら英語の適性が低いと言わざるを得ないタイプでした。
「適性ありませんよ」とは言えない
最初にお会いした時、彼は
「大学がつまらない」
「勉強してもしてもTOEICのスコアが上がらない」
「だけどどうしても700点取らないといけないから助けてほしい」
と言いました。
その時の彼のスコアは380点。
模試の結果や解き進める時の様子、音読のやり方、日本語の選び方などから鑑みて、私は「700取るのは相当大変だ」と判断しました。
それでも「適性が低いので無理ですよ」とは言えないので、「では700目指して頑張りましょう!」と明るく告げました。
現在の英語業界において、この「適性」についての言及は扱いがとても難しいです。
会社の利益を確保するという意味でも、また心情的にも、はっきり言うことは避けなくてはいけないものなのです。
疲れ果てた後の決断
という訳で、私は彼のために、やっぱりかなりキツいプランを組みました。
膨大に問題を解かせ、復習させて、音読をさせ、彼が苦手で大嫌いだと言っていた発音の指導をガンガンやりました。
若い大学生が苦手なことを頑張らなくちゃいけない社会にやり切れなさを感じつつ、私にはそれしか出来ませんでした。
それでもTOEICを受けるたび、彼のスコアは420〜430で膠着。
「まだ俺の努力が足りないんですか!」
と涙目で言われた時は、本当に心が痛みました。
「そんなことないですよ、よく頑張っていると思います」と答えながら、「じゃあ何で結果が出ないんですか」と言われて答えられない自分もいました。
彼も本当に苦しい思いをしたと思います。
そしてある日、突然彼は宣言しました。
「俺、フィジーに行ってきます!」
フィジーにいる間TOEICはお休みすると宣言して、彼は3ヶ月間のフィジー留学に旅立って行きました。
「自分らしい英語」とは
「初めて英語が話せた気がした」
フィジー留学に旅立った彼ですが、滞在したフィジーの気候と人々の気質がとても合っていたようです。
人々が穏やかで、時間の流れが日本と比べ大分緩やかだというフィジー。
日本ではなかなか友人に馴染めなかったという彼が、フィジーでは友達をたくさん作ったそうです。
帰国後に見せてもらった写真には、私が見たことのないような笑顔の彼が、たくさんの友達と一緒に写っていました。
「初めて英語が喋れた気がしたんです」
と教えてくれました。
楽しく自分らしく過ごすことができて、自分の英語で現地の人とコミュニケーションも取れた。
このことが何よりも彼の自信になって、それが「英語を喋れた」という認識に繋がった。ということですね。
「やっぱり喋れない」
そして帰国してスクールに戻った彼は、またTOEICの対策を始めました。
帰国した時には「喋れる気がした!」と嬉しそうに言っていた彼の表情がだんだん曇っていき、「つまらない」と言うようになって、最後は
「やっぱり英語は無理でした」
と言いながら、結局目標のスコアを達成できないままスクールを辞めていきました。
この時も、私は「会社員」としての限界をすごく感じました。
「英語を喋れる」ということ
受け入れられる感覚こそ鍵
確かに彼は、言語の適性が低いタイプの学生でした。
英語だけでなく日本語においても、また識字だけでなく聞き取りからの認知も、コミュニケーションの方法も独特でした。
そういう人が英語を話そうと思ったら、本当はどうすれば良いのでしょうか。
フィジー帰りの彼が「初めて英語が喋れた気がした」と言った時、その「英語を喋れた」とは、一体どんな状況だったのでしょうか。
きっと彼は温厚なフィジーの人々の中で、初めて受け入れられている感覚を持ったのではないか?と私は思うのです。
こだわりのある喋り方でも、多少英語が通じなくても、きっと「通じている、繋がっている感覚」を持つことができた。
だからこそTOEIC420〜430で膠着していた彼が、「喋れた気がした」と思えたのではないか?と思うのです。
本当に自分らしくいても大丈夫だと思える場所を見つけたことが、「英語を喋れる」に繋がる。
だとすれば、今社会で重視される「英語力」とは一体何なのでしょうね。
「上達」より「自分らしさ」
実は私自身も、そんなに言語適性が高い方ではありません。
英語を読むのはすごく遅いし、発音も悪いし、TOEICも努力しまくってやっと960点を取れたくらいで満点はきっと取れません。
そんな自分をずっと責めていて、会社員時代はそれを克服したくて、いつも苦しすぎる努力を続けていました。
読みたくもない洋書を読み、義務感でTOEICの参考書を全てチェックして、見たくもないTEDや英語ニュースを見ていました。
嫌で嫌で仕方ないのに、英語力が落ちるのが怖くて続けていました。
そんな思いでようやく英語力を上げたところで、果たして本当に楽しく自分らしく英語を使うことってできるのでしょうか。
今は、苦しすぎる努力をするのはやめました。
言語適性が高くない自分を責めるのをやめたし、今は別にそれが悪いとも思っていません。
私には英語よりも大切にしたいものがたくさんあって、ある程度通じる英語を使って人と繋がることができれば、それで十分です。
むしろ「人と繋がる」ことの方が私にとっては重要で、それには苦しすぎる努力をこれ以上する必要もないと気付きました。
それだけで、前より今の方が楽しく英語を使えている気がするのです。
もし「やってもやっても出来るようにならない」と感じたら、思い出してください。
言語には適性というものがあること、だからと言ってそれが全てではないことを。
本当のあなたらしさを表現するのに、その英語の勉強が必要ですか?
あなたが本当にやりたいことは何ですか?
それが見えた時、今のままの英語力でも「話せてる!」と感じることが出来るかもしれません。