キリスト教の「罪」と神道の「罪」、何が違うかについて書きたいと思います。
キリスト教の「原罪」
アダムとイブが悪魔に誘惑されて、神様に禁止された実を食べてしまった。
こんな聖書の一節を、知っている人はとても多いと思います。
ここで出てくる悪魔=サタンは、元々神聖な存在でしたが、傲慢によって「自分も神のようになりたい」と思い、神に反抗する「罪」を犯しました。
そしてイブを誘惑し、それによってイブとアダムは、禁止された実を食べました。
つまりイブとアダムもまた、神様に反抗する「罪」を負ったのです。
こうして人間は、生まれながらに「罪」を背負って生まれてくるとされています。
神を信じ、繋がろうとすることで、その「罪」からの救いを求める宗教です。
日本語の「つみ」
ここで神道の「罪」ですが、日本語は古来から音に力が宿るとされ、1つ1つの音に意味があります。
なので、「つみ」という音で考えます。
つ → 包む
み → 身(神様から借りている)
つみ:神様から授かった、すばらしい身体を包んで、隠してしまうこと
人間は生まれながらに、みな素晴らしい。
だからそれを存分に発揮して、お役目を果たして生きましょう。
それを我欲で包み隠してしまうことが「つみ」なのです、というのが神道の考え方のようです。
生まれた時から罪を背負っているキリスト教とは、そもそも出発点が違うのですね。
この「つみ」の考え方も、「気枯れ」の概念とよく似ています。
我を出さない
全ては神様のお導き
自分を信じて、天を信じる
自然のまま、自然とともに生きて、人や土地と共存して生きていく。
神さまはとても身近にいて、お喜ばせすれば、自然が整い人間を「生かして」くださる。
これが、今私に分かる範囲の神道の概念です。
神道は生活そのもの
しかし、本を読めば読むほど混乱してしまうこともあります。
神道には経典も教祖様もなく、修行もないのです。
きっと神道は、昔の日本の生活そのもので、年長者から概念を受け継ぎ、生活に取り入れられてきたのだなぁということが分かります。
今は重要視されていない古事記には、自然や人間の命についてのヒントがたくさん載っています。
色んな解釈がありますが、そもそも人によって解釈が違くても良いのかもしれません。
そこにもまた、神道の懐深さを感じたりします。
生活そのもの、自然そのもの、人そのもの。
そんな神道は、今のところ私には、深すぎてよく分かりません(笑)。
でも日本人として、失ったら駄目なものなんだ!と強く感じます。
誰か戦前を生きた方に、教えていただきたいこともたくさんあります。
でも、教えてもらうのではなくて、今の私たち世代の日本人が復興させることに、意味があるのかもしれません。
…そんなことを、本を読みながら考え込む毎日です。

外山 周
幼い頃から思っていることを言えずに育ち、アメリカの大学をうつ病で中退。帰国後に就職して英語スクールの立ち上げで成功するも、燃え尽きて退職。その経験から心理セラピストを目指すが、その過程で婚約者と破局。そんな中でセラピーを極め、見えないものに敏感なことを活かして「癒える」と「言える」に寄り添うセッションを開始。恋愛セラピーが好評。
心理セッションと英語トレーニングを組み合わせた、独自の英語サポートも準備中。
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