私的なことですが、もうすぐ祖父の命日です。
小さい頃、私は祖父がとても好きでした。
祖父は昔陸軍の士官で、終戦時には大陸にいたと聞いています。
戦争の話をよく聞いたし、中国語と英語に堪能で(今思えば思いっきり日本語発音でしたが)、小さい頃によく教えてもらいました。
祖父に聞いたエピソードを1つずつ書きます。
「日本の未来を頼む」
聞いた話の中で特に印象に残っているのは、終戦時に満州から引き上げる時のエピソードです。
祖父の上官が、「必ず生きて日本に帰れ」「日本の未来を頼む」と言ったのだそうです。
そしてその上官と満州で別れ、祖父は貴重品のほとんどを中国において、教育関係者としていち早く帰国したと言っていました。
この話は小さい頃に聞いて、かなり強烈に記憶に残っています。
祖父の表情に、感情は見えませんでした。
淡々としていて多くを語ることなく、それでも何か凄みのようなものを感じました。
「そうするしかなかった」
私が「日本」という国を強烈に意識するようになってから、疑問に思ったことがありました。
祖父は上官から「日本の未来を頼む」と言われていたのに、どうして次世代の若者に、そのエピソードを伝えなかったんだろう?と思いました。
祖父が、あまり多くを語らなかった理由が分かるような言葉も覚えています。
「いつくたばってもいいとは思っていたが、くたばりたかった訳ではない」
「天皇陛下のために戦った訳ではない、ただそうするしかなかった」
「自分より若い士官たちが、前線でどんどん死んだ。」
といういくつかの言葉です。
国よりも自分の生活を守りたかったのか、
伝えなくても伝わると思っていたのか、
語ることで若者を戦争賛美に走らせかねないと思ったのか、
心理的にとても語れないことだったのか、
どれも推測の域を出ませんが、現代の日本人から国家観と愛国心が消えている現実は、私にはとても悲しいことです。
今は、祖父が生きていた頃よりも勉強して、戦後に教科書には載らない歴史があったことが少しは分かるようになりました。
GHQの政策や、その後何十年にもおよぶ自虐史観が蔓延する社会で、進んで声を上げることなど出来なかったんだろうと今は分かります。
それに、戦後の日本で一から事業を興し妻子を養ったのです。
経済が発展して晩年を迎えた時、「ゆっくりしたい」と思ったとしても仕方ないとは思います。
…それでも、祖父がもっと後世に語り継いでいてくれたらなと、今もたまに思うことがあります。
より良い未来を
私自身、大学時代こそ仲間とこういう話で盛り上がっていましたが、就職してからは殆ど話さなくなりました。
特に転職後には毎日仕事ばかりしていて、歴史や国家のことなど考える余裕すらなく、こんなことすっかり忘れていました。
多くの日本人がきっとそうなんだろうと思うし、私もそうだったので「国家とか知らんし」という気持ちも分かります。
でも、私はやっぱり日本が好きです。
日本という国を、この歴史の重みと文化と、言葉を、未来に残したいって思います。
「より良い未来を作りたい」が最近のテーマです。
諦めなければ、きっと道は拓けると思っています。

外山 周
幼い頃から思っていることを言えずに育ち、アメリカの大学をうつ病で中退。帰国後に就職して英語スクールの立ち上げで成功するも、燃え尽きて退職。その経験から心理セラピストを目指すが、その過程で婚約者と破局。そんな中でセラピーを極め、見えないものに敏感なことを活かして「癒える」と「言える」に寄り添うセッションを開始。恋愛セラピーが好評。
心理セッションと英語トレーニングを組み合わせた、独自の英語サポートも準備中。
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